「房州のサナダさん」850年続く桓武平氏三浦党の佐奈田【房総真田氏】わたしらは平家の落人じゃありませんよ

このゴールデンウィーク中、本家に久し振りに伺ってきました。私の家も本家ですが、こちらはそんな私の家の更に上位レイヤーの本家。世が世だったら「お館さま」ではないだろうか?右奥に転がる黒いフカフカの物体は、そんなお館さまの現在の一の家来(?)黒猫のヌスネコさん。名の由来は「盗っ人ネコだから」と‥中々激しいネーミングセンス!そのセンスわたしは大好物です!この南房総市和田町布野の山奥は、海沿いの地元の人からは「平家の落人村」と長年呼ばれて怖がられてた(?)界隈、そんな山奥に住む何軒かのサナダさんたちの中で、古い順でいうとこちらのお宅は2番目、1番古いサナダさんが住む山の隣に家があります。そして私の家も、この鎌倉時代~戦国時代の房総真田の本家・本家筋全体でいうと、かなり古い〇番目のサナダさんになっている模様です(家自体はもう和田町布野にはないけど)。‥それにしても少子高齢化で一族単位で人・家が減っているので、この先は一体どうなるのでしょうかね。私自身、この地域の他のサナダさんは、もう2軒ぐらいしか面識がないのです。この先なにがあるか分からないから、今のうちに少しでも顔繫ぎしておいたほうがいいのかもしれないなぁ‥。そうそう、歴史好きな人は興味があるかもしれませんが、この地には信州のサナダさんより古い時代から「六文銭」を家紋として使っていたらしいサナダさんの本家もあります。昭和の頃は飲み屋さんをしてました(屋号をいうと即バレ 内緒にしときます)。※詳細はこちら→ 房総の眞田一族にも六文銭を家紋に使う家系がありま…

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三原郷の鎮守の社「中三原の諏訪神社」またの名を「もののけ神社(我が子命名)」

二つ前からの一連の投稿の続きになります。こちらは西暦1222年 鎌倉時代の遠い先祖が建立した諏訪神社。時代が下った戦国時代には里見氏が改修をしたそうです。こちらの神社は山道を10分ほど登った先にあり、この地に馴染みがないとかなり不気味にみえるらしく、うちの娘曰くここは「もののけ姫」の「もののけ神社」だと言いやがりました…我が子ながらヒドいこというよなぁーo(`ω´*)oプンスカプンスカ!!当時すでに仏教の伝来で肉食NGだったのですが、ここのように狩りの神様である諏訪神社を奉り、お供物として捧げる大義をもって仏教のしきたりを公明正大に回避したんでしょうね。ようはイノシシやシカ、ノウサギやタヌキにキツネ、アナグマ、そのほか様々な野鳥などを狩って狩って狩りまくり(?)、その場で形だけでも地元の諏訪神社の神様にお祈りしお供物として捧げ、しばしの後に喰らう!!‥そんな情景が目に浮かびます。折しもこの時代は、各地でも諏訪神社が多く建立された時期なようで、まぁ~みんな肉が好きなんだよなぁわかるわかる。神社建立から800年ちょい先の子孫の一人の私も、実は魚より肉派です。唐揚げ牛丼大好きだー( ゚д゚ )クワッ!!この辺りは海産物が無双な外房地域ですが、あくまでワタクシ個人的には、たとえどんなに新鮮であろうと魚なんていくら食っても力出ませんわw生魚も消化に悪いし好きじゃないのですw話を戻しましょう。この神社の社殿は実は中々巨大なものでして、比較のため写真の右側に人のサイズを入れてみましたのでご参考ください。写真…

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遠い先祖の「三原城」中世の安房国の館城跡

一つ前の投稿の続きになります。正文寺の先祖の供養塔にお参りしたあと、そのすぐ脇の道をあがり、同じく遠い先祖が館城「三原城」を構えた城跡に寄ってみました。うちの車でギリギリ幅の急な坂道を上った丘の畑の中にある台地、ここが「三原城」の城跡です。車で城跡に横付けしましたので、台地の規模がわかりやすいのではないでしょうかね。台地は3mぐらいの高さがあります。城跡の台地の上に上がるとこんな感じです。見たところ‥、テニスコート3~4つ分ほどの平らな地形になっています。ここに館があったのでしょうかね。背後の削れた山肌の上にってことはないとは思うのですが‥、元々はもう少し台地自体が高くて、時代が下って新たな所有者に地面が削られて今の形になったのかな?ここからの見晴らしはよいですねぇ~。気分いいや(*´ω`*)この台地からは、さっき正文寺の駐車場から見えた三原城山城(籠城用出城?)と、やはりその時代の先祖が建立したと伝わる諏訪神社の山が見えました。せっかくなので諏訪神社にも、この後久しぶりにお詣りにいくことにしました。その神社は山の奥にあり昼でも薄暗く、前にうちの娘を小さいときに連れて行った際は「もののけ神社だギャー!」と喚かれ半泣きされたのを思い出しました。次回につづく‥。 ↓三原郷の鎮守の社「中三原の諏訪神社」またの名を「もののけ神社(我が子命名)」https://sanada-do.seesaa.net/article/2025-02-07-2.html【関連日記】三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人…

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遠い先祖の摩崖の五輪塔にお参り 市指定文化財のお墓

ついこの前、仕事の合間を縫って久しぶりに遠い先祖の供養塔にお参りしてきました。こちらは鎌倉時代の我ら先祖の磨崖の五輪塔。なんでも鎌倉時代の様式がしっかり残ることから歴史的な価値が高く、南房総市の市指定文化財になってます。そもそも五輪塔は史跡で散見できるのですが、このように山肌に横穴を開け、そこに摩崖仏のように五輪塔を掘ったものは国内でも珍しく‥、この形態は鎌倉時代の武士の祠でよくあるスタイルなんだそうで、その中でも千葉県側では完成度(精度)が高いものなんだそうです。そのような背景から昭和の頃に市指定文化財に認定されたとのことでした。なによりこの摩崖五輪塔の存在が、平安末期に浦賀水道を渡り、相模国の佐奈田村から安房国に進出してきた当時のご先祖たちと鎌倉政権のつながりの深さがわかります。ちなみにこの日は、前もって置かせていただいた線香台にお線香を灯したあと、お供物として私のお昼ご飯に買っておいたハンバーガーパン(!)をあげさせていただきました。ハンバーガーは、当然そのまま置いておくと野生動物に食い散らかされて辺りが汚くなっちゃいますので、程よいタイミングで今度はお下がりとして私が責任をもって最後までおいしくいただきました(-人-)市指定文化財の解説、左側がこの摩崖の五輪塔の記述です。しかし市指定文化財が先祖の墓ってどうよなんだかオレってイカれてるぜ( ´,_ゝ`)プッそうそう、この五輪塔があるお寺はこちら、現在では日蓮宗の正文寺ですが、うちの先祖の全盛期は、こちらは曹洞宗(禅宗)のお寺でした(写真は…

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遠い遠い先祖のお墓 摩崖の五輪塔にお参り

ちょっと前に、ウチの家に所以のある南房総市和田町の神社にお詣りに行ってきたことをここで書きましたが、その序でというわけではないですが、やはり遠い先祖の供養塔と云われる、すぐそばのお寺『正文寺』にある摩崖の五輪塔にもお参りに行ってきました。このお寺は『安元(あんげん)・治承(ちしょう)(1175~1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺』と云われておりますが、一説にはその時代の豪族、直内原吉さんが創建し、そこにこの地の領主だったウチの遠い先祖の供養塔(摩崖の五輪塔)が建てられ、先祖の菩提寺になったとも云われています。お寺のお墓の一番奥の崖の中腹に供養塔はあります。伝承ではこの山(丘)の上に、平安時代後期から先祖の館があったということです。今では竹藪になっており、その向こうは主に畑で、当時の面影は既に全くありません。山の斜面に横穴を掘り、そこに摩崖の五輪塔を作る様式は、典型的な鎌倉時代の土着武士、鎌倉武士のお墓の作りなのだそうです、まぁ先祖は平安末期に元々相模国からこっちに渡ってきましたし、その後も同じ三浦一族として、浦賀水道を挟んで盛んに交流していたでしょうし、当然といえば当然の形態かと思われます。この五輪塔が建立された時代については、郷土史研究家によると14世紀(鎌倉~南北朝期)に造られたと推定されているようですが、ウチの言い伝えでは諏訪神社建立の時期と同様に1200年代、つまり13世紀だと云われております。こちらは南房総市の市指定文化財になっておりますが、ずっと前にお寺に…

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三原郷の鎮守の社 諏訪神社

ウチの遠いご先祖さんは、平安時代の終わりに相模国 大住郡の岡崎郷佐奈田村(眞田村)から安房国の朝夷郡 三原郷へと、今の地名で言うと神奈川県の平塚市真田から千葉県の南房総市和田町の三原川一帯に渡ってきて土着した、三浦一族の幾つかある土豪のうちの一つで所謂典型的な『開拓領主』の家ですが、その先祖がこの地に根を下ろす過程で、早い段階で菩提寺(正文寺)と鎮守の社である諏訪神社を建立して、地域との連携を図っております。つい昨日なのですが、ふと思い立ち、そのご先祖が建立したという伝承がある和田町の中三原の諏訪神社に、久しぶりに家族でお詣りに行ってきました。私は過去に何度かお詣りに伺っていたのですが、結婚してからは子供が小さく中々行けず、今回凡そ10年ぶりのお詣りです。奥さんや子供にとっては初めてのお詣りですね。実をいいますと、私自身はこちらに伺うのは面倒なわけじゃなかったのですが、ここの参道が中々クセがありまして、、行けばすぐに分かるのですが、参道の途中の坂が何か所か角度が急な上に、コンクリート張りの舗装が災いして雨などの悪天候下、そして雨上がりなどではめちゃくちゃ足元が滑りやすく、、小さい子を連れていくにはやや難易度が高かったのです。そして以下が、貞応年間(1222~24)に和田町中三原唐ケ作に建立された『諏訪神社』になります。民家の横にある鳥居を抜けて、参道は山の奥に続いています。コンクリート張りの参道は苔むしていますし、雨の後などは足元が滑りやすく、慣れないとちょっと危険かもしれません。そのコンクリート…

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こんな時代ですので、遠い先祖の祠に墓参り

新型コロナ、経済の疲弊、そして世界大戦の足音・・間違いなく今は時代の変革期、運命の大車輪が音を立てて回転しているようですねこんな時代の狭間は、人類の長い歴史の中でも度々訪れましたそれでも祖先たちはギリギリな思いをしながらも、それぞれその窮地を切り抜けてきたんでしょうねだから今の私達がいるわけですそんな先祖たちの更にVersion UP版が私達、きっと今のピンチも越えられます!皆さんもこんな時代だからこそ自身の先祖を敬い、今日を精いっぱい生き、そして明日に挑みましょう、道は必ず開きます!写真はそんなウチの、判明している範囲で最も古い先祖の祠です平安時代末期に相模国の佐奈田村から、この安房国の三原川流域の地に土着したウチの遠い先祖の、その正に初代さん達の祠、ついこの前ですがコロナ渦の中、注意しながらお参りしてきましたここにお参りしたのは(私はともかく)奥さんと娘は一年チョイぶりですね、コロナがなけりゃこんなに間は開けなかったです、いやホント(;´_ゝ`)少なくとも860年以上前からこの地で暮らした先祖がいる、そして今に繋げてくれた沢山の先代たちがいる、何よりそう実感させてくれる祠・墓など一族のモニュメントの存在は、過酷な今の時代を生きる私達を大いに勇気づけてくれるものです、皆さんのお墓もきっとそう!子孫のみなさんに地に足のついた勇気、そして元気を与えてくれる掛け替えのない唯一無二のものと思います因みにこの山の斜面に掘られた祠『磨崖の五輪塔』は南房総市の市指定文化財ですが、砂岩のため経年劣化でもうボロボ…

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遠いご先祖のものと云われる摩崖の五輪塔にも新年のご挨拶

自分の家の大本の故郷は千葉県の南房総市和田町でして、そこには自分達の家とも関係があると伝えられている、南房総市市指定文化財の摩崖の五輪塔があります年もあけましたし、家族でお線香を上げに行ってきました12世紀という気の遠くなるような昔のお墓の前で、ピースサインを出す21世紀の子孫のひとり冷静に考えると、ちょっと浮世離れしているかもしれませんこのお墓参りと前後して、ふっと気になって買ってみた本平安時代末期に湾を挟んだ相模国から渡ってきて安房国に土着したと伝えられる私達一族ですが、その後の戦国時代では戦国武将の里見氏や正木氏の重鎮として複数の人物が仕えておりまして、、読んでみたらちょっとビビったーw家伝や口伝などで聞いたことのある私達の先祖の皆さんの、その過激な逸話が幾つか出てました、今の時代だと『いやーそりゃやっちゃダメだろ!』『どーせ嘘だろ!』って思ってた様々な内輪話が、実はリアルなことだったということか・・それにしてもこの本の作者さん、何でそんなに詳しいんだ?誰が一体彼にバラした?(;^ω^)今の時代では、けっして聞こえのいいことじゃないんでblogなどには今後もあまり書こうとは思いませんが、まー平安時代末期もそうだけど、戦国時代のような、そんな時代が移り変わる『ハザマの時代』は、人々が今よりずっと荒くれてたんでしょうね何はともあれ遠いご先祖さん、子孫のハシクレが今年もお墓参りに来ましたよ!子孫繁栄商売繁盛何卒何卒宜しくお願い致します!(ー人ー) ムージョージンジン ミーミョーホー <曹洞宗…

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ウチのいちばん古い墓と云われる五輪塔に久しぶりにお参り 正文寺(普門寺)|д゚)

ウチに関係するお墓の中で、いちばん古い墓と云われてるものは、この山の斜面に掘った磨崖の五輪塔 この五輪塔は実は南房総市市指定文化財で、南房総市の正文寺にありますが、このお寺自体を平安時代の末期から鎌倉時代の始めにかけて(確か)曹洞宗の菩提寺として建立したのがウチの遠い先祖と云われてます やがて戦国時代になりこのお寺『正文寺』は正木さんに引き継がれ、ここは日蓮宗の寺になりましたそしてもれなくこの五輪塔の梵字は削られたのさ( ´_ゝ`)フッ、他にも磨崖仏の顔も削られてるんだなー 宗教って何なんだろうね、何だか色々もったんないよね( ´・∀・`) 遠いご先祖さん、子孫のハシクレがお墓参りに来ましたよ!子孫繁栄商売繁盛何卒宜しくお願い致します!(ー人ー) ムージョージンジン ミーミョーホー <曹洞宗 あ、こちらの御前様(ごぜんさま/ご住職の意)に、今日はウチの本家・本家筋の一族の事や家伝・口伝のことなど色々聞かれて恥ずかしかった(;^ω^) 自分んちは既にこの寺の檀家じゃないから、遠慮がちにいつもコッソリ行ってますが、、この祠自体がお寺を一望できる一番高いところにあり、逆にこの祠に行くと、もれなく目立つんだわなー何度か伺ってるとこ確実に見られてるなぁー、まー当たり前か ァ '`,、'`,、(;´∀`) '`,、'`,、 Ancestral tomb over 850 years ago..摩崖の五輪塔からお寺を眺めた動画(↓ 下記URLをクリックするとインスタグラムに飛びま…

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年末のご挨拶で親戚巡り【三原郷】南房総市和田町の山奥へ( ´ー`)

あー、一つ前の日記でも書きましたように、そば処 南総庵でお蕎麦を食べた後は、いよいよこの日の目的南房総市和田町の親戚のお宅巡り!我がゴッドマザー(バァーチャン)直令でもあり、槍が降ろうが北のミサイルが飛んでこようが、使命として行かねばなりません!目的地は「和田町」の山の中、南総庵がある「千倉町」と同じ南房総市内ではありますが「南総庵」からは車で15分ほど移動したところ、その昔「三原郷/御原郷」と呼ばれた郷(さと)の、その最北部一帯に向かいましたこの界隈は、まー見渡す限り山しかありませんが、、今でも親戚の家が何軒かありますし、昭和の頃まではウチの実家もココにあったこともあり、自分にとっては思い入れの深い地域ですこの日は、そんな(江戸時代の初めに帰農してから昭和の頃まで)ウチの家があった場所の脇道に車を停め、そこからテクテクと数軒の親戚の家にお届け物をしに行きながら顔を出してきました昭和の頃までウチがあった場所は今は更地、現在この土地は親戚の一軒が所有していると思いますその正面の山の麓には、当時ウチのお墓もありました上記の写真を拡大すると、今でも親戚たちの墓があるのがわかります元々ウチは三浦半島の大豪族「三浦党」に属するこの地域一帯の小豪族(土豪)の家系でしたが、江戸時代に入ってから本家や本家筋など主だった一族が、揃ってこの辺りに帰農し引っ込んだこともあり、、それが原因なのか和田町の地元の古い方々、特に海の方の人達からは「(この一帯は)平家の落人村」だと今でも言われているようですw、まーつまりこの界隈…

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