南房総資源辞典 和田町史 近世の村々
http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/article.php?flg=2&code=1573
前にもblogで紹介した内容ですが、何気に上記URL先を読んでると、親戚が住所モロバレで登場してるっすw
前にもblogで紹介した内容ですが、何気に上記URL先を読んでると、親戚が住所モロバレで登場してるっすw
この文中の(新田)(木左衛門)(松葉)は屋号です
大多喜城や勝浦城を追われた後(正木氏の上総撤退)、三原郷の真浦村から分村した布野に戻り、
江戸時代はこの地でひっそりと暮らした様が垣間見える
まーだから近隣に「平家の落人村」だなんて言われるのかな
まーだから近隣に「平家の落人村」だなんて言われるのかな
(´;ω;`)ウッ…
(平家の落人村は誤解だぜぃ!)
(平家の落人村は誤解だぜぃ!)
ちなみにここに書かれている(新田)屋号の真田高次(眞田高次)氏は、
もう既に亡くなられていて、現在は次の世代になっております
もう既に亡くなられていて、現在は次の世代になっております
以下、「南房総資源辞典 和田町史 近世の村々 布野村」より抜粋します
抜粋するにあたり、読みやすいように、私の方で漢数字と改行や濁点など、インターネット用ということで直しておきます
どうも印刷物をスキャナーで読み込み、なんかのアプリでテキスト化したようで、明らかな誤字がありますね
あーそうそう、親戚の住所の番地表記もxxxとし、ここでは濁しておきます
(´Д`)
あーそうそう、親戚の住所の番地表記もxxxとし、ここでは濁しておきます
(´Д`)
(2) 真田氏とその遺跡
三原の地に、いつごろからか、相模国の名族三浦氏の流れを汲む真田氏が、在地の豪族として君臨していました。
中三原の正文寺、同じく唐ケ作の諏訪神社の創建。
そして、真田氏と深い関係があるだろうと推測される和田町布野xxx真田政夫氏(木左衛門)、同xxx真田高次氏(新田)、同xxx真田明氏(松葉)の三氏ですが、確かな物証がなく残念です。
古老の口伝や、戸田七郎氏著『南総正木太平記』によりますと、真田氏とのかかわりは、次のように伝えられています。
真田氏は、三原城(神田の城山)を築き、菩提寺と鎮守の社も建ててこの地を支配したのです。
安元・治承(1175~81)のころ、時の真田氏の頭領、真田源吾という人が、中三原に禅宗の一祠を建てて一族の菩提寺としました。
更に、真田氏は貞応年間(1222~24)には和田町中三原唐ケ作に諏訪神社を創建して、地域との連携を図りました。
正文寺に残っている真田氏の遺跡は、祖師堂の向かって左手の裏山の中腹にある洞窟の中に刻まれている磨崖仏四基です。
「これは明らかに禅宗当時の真田氏の墓で、その所以は磨崖仏の中の一基に、日蓮宗では使用しない阿字(久)が刻まれているからです。これでこの磨崖仏は改宗前の禅宗当時の真田氏の墓地に相違ない」と、住職の斎藤貞譲氏はいわれております。
更に、薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)の磨崖仏がありますが、その一部が削り取られたようになっていますが
「この仏像は薬師三尊像で、薬師如来の信仰は日蓮宗にはないので、日蓮宗に改宗したときに毀釈した残像でしょう」と、齊藤氏はいわれます。
また、正文寺の東方、三原川を越えた小川原の中に経塚と呼ばれる土塁がありますが、
これは正文寺が日蓮宗に改宗された際に禅宗当時の「経典類焚書の地」と言い伝えられ、人々は近寄らず今は荒地となっています。
安元・治承のころから鎌倉時代を経て、大永・享禄のころまでおよそ350年の歳月が流れています。
その間、真田氏は、中三原の城山に城を築き、城内に八大竜王(難陀・跋難陀・娑翔羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多。摩那斯・優鉢羅竜王)を祀って五穀の豊穣を祈り、寺谷に寺を建てて祖先の菩提を弔い、唐ケ作に諏訪神社を建てて氏族の鎮護としました。
特に、典型的な地域に根を下ろした豪族でした。
もちろんその間には、多少の盛衰はあったでしょうが、それでも連綿として300年以上も家系を伝えていたものと思われます。
現在の和田町小川の「とうしろ台」辺りに拠った境井氏が里見に反旗をひるがえした時には、真田氏は里見の将正木時綱に味方をして、ともに戦ったものと思われます。
その時、真田氏の氏神諏訪神社にも累が及んで荒廃したものでしょうか、永禄年間(1558~70)に修築が行われています。
やがて境井氏を減ぼした正木氏は、正木郷、三原郷、長狭郡を領有しますと、領域内の豪族や有力国人地侍層で正木譜代の直属家臣団を形づくっていきましたが、その一員として、三原の在地領主 真田隼人佑の名があります。
あるいは大永、享禄のころの真田氏の当主であったかも知れません。
正木氏はその後、大多喜、勝浦を前進基地として、東上総に進出しますが、三原の豪族の真田氏は房州出所の直属家臣団の一員として特に重用され、
真田隼人佑をはじめ一族の主だった者たちは、大多喜や勝浦へと移って行きました。
もちろん、分家、庶家の中には、そのまま三原にとどまって家系を保った者もあったはずです。
そして、天正18年(1590)正木氏の上総撤退時には、再び古里の三原に帰った真田一族があったと思われます。
また中三原宿の台地の三原城吐は、大永・享禄(1521~1532)のころから慶長10年(1605)までのおよそ7~80年間、正木氏の居城あるいは館の吐でありました。
なお、正木兵は、中三原の入口を守る城山、小川のとうしろ台の要害は、ともに砦、見張り、詰城、控え城として活用していて、むしろ全体が三原城であったとも考えられます。とうしろ台城といわれるこの城祉には、城井と思われる湧水が残っており、駒場、根方、堀の内、宿、向根、馬場などの地名が今なお残っています。
和田町布野xxx番地 真田明氏の墓には、真田家の家紋六文銭(六連銭)が刻されている石塔があります。
刀や槍などが数多く保存されていたそうです。
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文中にあった 戸田七郎氏著『南総正木太平記』はこれ↓
実は昔から家にありますww

この本は、ウチの先祖の事はもちろん、
主に房総半島の、大小含めた豪族や地侍たちの歴史が色々書かれてて面白いっすよーん(´∀`)
以下から買えるようにリンク張っときましたが、、
なんかエラい高くなってるのねん('A`)
ちなみにウチにあるのは初版本です
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- 作者: 戸田 七郎
- 出版社/メーカー: 新人物往来社
- 発売日: 1992/06
- メディア: 単行本
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